2014/02/15 「オナカスイター」

雪ですね。今はもう雹? 家の外でパラパラと音がしているので、気になって外に少しだけ出てみたら、歩いた靴の跡がずっしりと雪にめり込んで、5センチ、10センチも沈んでいるのでとても楽しい気分になったところ。

昨日は雪で会社にいく必要がなくなったので、家の近くで母親と昼食をとった。

わたしはシーザーサラダとスープカレーを食べた。なかなか、おいしい。

 

人にご飯に誘ってもらうことがときどきあって、そういうときにたいてい食べたいものと嫌いなものをきかれる。わたしはたいてい「わさびとからしが入っていなければなんでも」とか、そういう答え方をするのだけれど、最近自分でご飯をつくらなければならないという状況になったとき、嗜好がかなり偏っていることに今更ながら気付いた。

基本的に大根とキャベツ、サラダが好き。海藻も好き。あぶらっぽいものが嫌いで、とり肉か魚が好き。誰かに作ってもらうのでもない限り、ポテトサラダなんて食べようとは思わないだろうし、マヨネーズを使うこともほとんどないと思う。

とっても「ヘルシー」な食の嗜好である。

 

ただこれは残念ながら、暴食スイッチが入っていないときの話です。

スイッチが入ってしまうと、なかなか止めることはむずかしい。

自らの快楽に身を任せてみると、肉、炭水化物、あぶら、甘いものが死ぬほど好き。でもそれらは私を一時的に死ぬほど幸せにしたあと、ゆるやかな絶望感に導きますから、困ったものです。

だから第一の予防として、スイッチを入れない努力が必要になる。けれど、それもまたむずかしくて、よく失敗をする。(関係ないけれど石川智晶の「スイッチが入ったら」、こういう気持ちになるたびに頭のなかで流れてくる)(まあそれでも昔よりはずいぶん良くなったかなとは思う。「まあそういうこともあるね」と言えるようになったのは、余裕のあらわれでしょう)

 

スイッチが入るのは、たいてい不幸せな気持ちのときです。どうしていやな気分のときにご飯が食べたくなるのかというと、いちばんには快楽を感じたいからだと思うけれど、数ある快楽のなかでも食にこだわってしまう理由のひとつは、気持ちだけの問題でなく実際に胸がつかえて呼吸が苦しくなるからだと思う。少なくともわたしにとっては、喉をおいしいもの、快楽を与えるものが通りぬけ、体を通り抜けていく瞬間がとても大切です。そしてお腹の中で苦しいほどに体を圧迫することで、私は息苦しさから逃れることができるように思う。

 

ところで、ちくまの宮沢賢治の小説集を購入しました。「やまなし」とか「よだかの星」とか「風の又三郎」とか有名な物語が多く入っているので、じっくり読んでみるつもり。とてもなつかしい。とてもきれいな言葉なので、短いものを選んで、つっかえつっかえ、朗読をしました。

体の中をきれいな言葉が通り抜けていくのは、とても素敵な気分で、心が浄化されるような思いになります。普段、多くのものは体の中を巡ることがなくて、文字を書くことですら、最近は指先だけで行われているような気がしています。そのせいで、私は喉や胸あたりがいつまでもつかえたまま。

でも、誰かの美しい言葉を読んで、声に出すことによって、飲み物を飲んだり、食べ物を食べるときのように、それらが体の中を巡っていくような気がしたのでした。そして、私はやっとのどにつかえたものを飲み下し、まともに息をすることができるように思う。

 

――まあ、お腹が空いたと思ったら、まずは誤認を疑い、深呼吸をし、水を飲んで、余裕ができれば詩か物語でも朗読しなさい。それがだめならそのときはそのときなのでしょ。

 

おやすみなさい。

不完全燃焼/スイッチが入ったら

不完全燃焼/スイッチが入ったら

 
宮沢賢治 (ちくま日本文学 3)

宮沢賢治 (ちくま日本文学 3)