めんどうな日

最近、落ち込むことが多い。それは落ち込むだけの時間ができたということだ。熟考しないまま仕方なく忘れたり、通りすぎるのでなく、じっと見つめる時間ができたということだ。それはべつに悪いことではない。勿論、そればかりがいいことでもないけれど。

 気が滅入るのは、思っていたようなこととは別のことをやってしまったとき。私はどうも、人よりも間違えたり忘れたりしやすいらしい。悲しいことだ。診断することはできるかもしれないけれど、どうだろう。必要なのかわからない。これ以上、社会的にならなくてもいいような気もするのだ。肩書きや名前のようなものは、しばらくどこかに預けてしまいたいほどだ。Googleにも、保険会社にも私のことを教える必要はない。Googleは、すきだけど。でも。

 

なんていう、ものすごくめんどうなことを考えてしまう日。

 

 

鏡と皮膚―芸術のミュトロギア (ちくま学芸文庫)

鏡と皮膚―芸術のミュトロギア (ちくま学芸文庫)

読み終わった。

様々な神話・絵画からタイトルの通り「鏡」と「皮膚」という表象をテーマに書いてある本。読みやすく、図版も多く、面白い。ただこういう本は、完全に納得しながら読むというものでもないのだな、と学習しているところ。

「皮膚を剥いだとしても、剥ぐことによって、解剖されることによって、内部もまた外部になる。主体がどこにあるのか、本質がどこにあるのかを突き止めることなどできない。寧ろ本質とは表面にあるのだ」、というようなことが書かれていたような(ような)気がする。面白かった。

表紙はエドワード・スタイケンの《グロリア・スワンソン》(1924)。いま丁度、世田谷美術館で「エドワード・スタイケン写真展 モダン・エイジの光と影1923-1937」という展覧会が始まったところだから、会期が終わるまでに、できれば行っておきたい。

 

太宰治『皮膚と心』

『鏡と皮膚』に登場したので読んでみた。よく検索してはいけない言葉に載ってる「蓮コラ」とかもあるけど、それから「お肌のトラブル」とか言うけれど、肌の上にできたものの気持ち悪さというのは本当に得体が知れず恐ろしい。

 

ひとりごと

ずいぶん悩んでいた卒業論文について、少し道が見えてきたように思えるので心が軽い。しかし何しろ、時間配分が致命的に苦手。一度にやらなくてはならないようなことがいくつもいくつもあって、その上どうしてもやりたいことまで山ほどあるので、その優先順位を中々決められない。

 

そういえばこのブログは未だタイトルも決められていない。どうしようか。最近はTwitterで本当のことを書くのが難しいので、避難場所のような気分で作っただけのもの。まだ何を書こうというつもりもない。多分動機からして、Twitterよりもさらに個人的なひとりごとになるのだと思う。どうしようか。

 

中井久夫『世に棲む患者』

借りたので少しだけ読む。この人の本は2冊目だけれど、確かに貸してくれた人が言っていたようにあくまで”治療者”としての立場から書かれているんだと思う。たくさんの実例が挙げられているが、そのすべてに対して私は「まったく理解ができない」ということができない。勿論すべてを理解できるわけもないが。どちらでもないことがいいのだとも思う。

 

映画

下妻物語

見るのは二度目。可愛いし、満足した。

ロリータ、ゴスロリといった服装は好きだ。なぜほぼ(非日常的なイベントを除いて)着ないのかといえば、好きな人達はその言葉を嫌うけれど、やはり最終的にはキャラクターを纏うという意味でコスプレのように思えるからだ。いやコスプレであること自体なにも問題はないと思うけれど(何を着ていたってそれはある意味でコスプレのようなものだろうし)、一歩間違えれば恥ずかしくも見えてしまうこの洋服を着こなすためには強固なキャラ設定が必要になる。無意味に着ることが難しい種類のものだから。私に関して言えば、その作りこみが面倒なので、相当気合の入ったときでなければ演じ切ることができないということなのだろう。

この映画はかなりロリータファッションのそういうところに自覚的であるように思われて、見ていて痛々しくなく、むしろ痛快だった。深田恭子の「似合ってるけど、まあそれなり」であるという程よさ、田舎の民家の中でのロリータ部屋の程よさ。

 

英国王のスピーチ

ストーリーそのものもよいのだろうが、部屋の雰囲気がよかった。部屋というのは、言語療法士のライオネルの仕事場。度々王室の綺麗な装飾の部屋が出てくるのだけれど、それよりもライオネルの広い窓の簡素な部屋がいい。

聞くだけでも何を言っているのか分かるほど英語ができたなら。

2月2日までのこと

 今朝、風呂に入れたお湯があつすぎたので冷水を注いでいると、わずか1センチほどもないなめくじが壁を這っているのにきづいた。とらえどころのない形は間違ってお湯の中に入りでもしたら、とけこんで見えなくなってしまいそうだ。わたしは湯船の外で鳥肌を立てているというのに/母が奈良美智のこどものような表情で上空を見ながら、椅子に体育座りしている/父「マルガリータ」

 


香川檀『想起のかたち 記憶アートの歴史意識』
中島智『文化のなかの野性』
中井久夫『徴候・記憶・外傷』
ジョルジョ・アガンベン岡田温司訳『スタンツェ 西洋文化における言葉とイメージ』

小説・詩
山尾悠子山尾悠子作品集成』
パティ・スミス、東玲子訳『無垢の予兆』

漫画
ふみふみこ『ぼくらのへんたい(1)(2)』
アルコ×河原和音『俺物語!!(1)』